ユイノートver.02

いろいろ気ままに書いています。

これまでの僕と、これからの僕。

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 自分の人生の整理の為にちょっと自分の過去を振り返って文字にしてみようと思います。誤解されそうなのでこれは強調しておきますが、別に死のうと考えててこういう事してる訳ではありません。何となくです。文字にしておく事で似たような境遇の方やこういう価値観もあるんだなぁ程度になれば幸いです。とりあえず友人がこれを見れば「僕と言う人間はこうしてできた」と分かってちょっと面白いかも知れない。

 今回の記事はいわゆる自分語りに当たる記事なので苦手な方はあらかじめご了承ください。

  自分の人生で一番最初にキツい、死にたいと思ったのは多分、小1か小2ぐらいだったと思います。ガキの癖に何を……と言う話になるのですが、当時僕が住んでいた家は母親側ではなく、父親側のおじいちゃんおばあちゃんの家が近く、何かあればそちらに預けられて居たのですがそこではっきりとおじいちゃんに「お前はいらん、来るな」と言われたんです。ものすごくショックでした。

 

 これ、どういう事なのかと言うと母親側は5人姉弟で孫はたくさん居たので差別に近い事はなかったのですが、父親側は父親(三人兄弟の長男)の結婚でようやく孫が生まれました。それが兄になります。じゃあ二人目は女の子やな!と言っていたら生まれたのは男の僕でした。だから僕の扱いは悪かったし、要らなかったと。本当に凄くショックだったので、両親が迎えに来て母親に超ストレートに「僕いらん子なんやろ? なんでおるん? 殺してや」と言いました。まぁ母親は超キレますよね。まず僕はものすごく怒られました。でも、子供が当然そんな事を言うのだから何があったのだろう?となる訳で。

 

 隠す理由は何一つないのでおじいちゃんに言われた事をそのまま母親に伝えました。そうしたらもっと怒っていた気がします。当然でしょう。母親からすれば自分が腹を痛めて生んだ子をいらん子扱いされた訳でしたから。母が父に何か色々言っていた気はしますが、記憶がある限り僕の扱いが改善された、と言う事はなかったように思いますのできっと母親ではどうしようもなかったのでしょう。

 

 ではおばあちゃんの家にいるとき、僕はどうして過ごして居たのかというとなるべく近くの公園に遊びに出かけたりしていた気がします。なるべく家に居ないようにしていました。あとは不憫に思ってくれた叔父(次男)の人が僕に気を使って色んな所に遊びに連れて行ってくれた記憶があります。後に(12歳ぐらいの時)、どうしてあんなに気を使ってくれたのかと聞いた時に、

「俺も次男でおんなじような感じやったんよね。兄貴は好き勝手してるし三男は超わがままでおかんもおとんも甘かったから。いらん子扱いって言うか蔑ろにされてたって言うか。えらい昔に、姉ちゃん(僕の母親)がどエラい怒って電話してきたって話を詳しくおとんに聞いたんよ。ほんまありえへんよなぁ」

 

 これが僕にとって最初の分岐点だったと思います。ここで叔父の人が気を使ってくれてなかったらまずグレてたと言うか非行に走っていたと思います。ここで言っておきたいのは小さい頃に言われた事って物凄く残るんです。両親や祖母達にも色々事情や感情はあったのだと思いますが、小さい頃に自分の存在をハッキリ否定されて今も「自分は要らない存在」だと言う考えが根付いています。……自分は要らない存在と言うか世界にとって取るに足らない存在みたいな感覚ですね。

 事実として僕と言う人間の代わりは世界中のどこを探しても居ませんが、僕の役割(仕事だったり人付き合いの立ち位置とか)の代わりなんていくらでもいます。言ってしまえば僕である必要だってないんです。むしろ、世の中にたくさん居るであろう僕より出来た人間がそれを担当した方が仕事はスムーズに行くでしょうし、関わっている友人達だって幸せになれるはずです。

 

 両親……と言うより母親には凄く感謝しています。今でも僕の口癖である「まぁええや」「死ぬわけじゃないまぁええわ」と言う考えを体現している人で雑だったり適当な人ではありましたが、今僕がこれを書いているのはやっぱり母親が頑張ってくれたからな訳です。まったく恨みがないのかと言うとそういう訳じゃありませんが。

 

 では父親はどうなのかと言うとあんまりいい印象がありませんでした。父親にとっては兄の方が可愛かったみたいで何かあると兄は物を買って貰ってましたし、僕に内緒でどこかに出かけると言う事はしょっちゅうありました。ケンカをしても叩かれるのは常に僕だったような記憶もあります。ケンカする時って90%くらいは兄がちょっかいかけてきて無視しててもしつこいからケンカになってたんですけどね。

 

 当時は納得行ってませんでしたが、兄の価値観がこれでゆがんだのは間違いないでしょう。何せどうやっても怒られるのは弟である僕で、よしんば怒られる事があっても何一つ悪くない僕を巻き込む事で怒られる量を少なくしてきた訳ですので。これで最終的に苦しむのは兄だと思うので、今となってはそんなに気にはしてないのですけども。

 

 でまぁ父親がそんなんですので、母親がケンカの仲裁をしてくれてた訳ですけどもやっぱりどちらもクソガキで、僕はもっとガキなので話を聞くとなるとどうしても兄になるんですよ。3つしか変わらない訳ですが兄の方が口が達者だったので兄は自分の都合のいいように言うんです。だから僕がどれだけ悪くなくても喧嘩両成敗になる。もちろん僕が悪くてケンカになった事もあるでしょうけれど、記憶では殆どが兄の意地悪だった気がするなぁ。

 

 ここら辺の事が切っ掛けで、僕の考えの一つである「自分が悪い、自分が可笑しいで話が済むんなら面倒くせぇからそれでいいや」と言うのが根付いたと考えるとちょっと深い話なのかも知れない。

 これに関しては僕が他人に興味がないので、討論するのが面倒くさくて「君が正しいでいいよ、はい終わり!」と言うのがデカいでしょう。

 

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 次に僕にとって人生のしんどい時期と言うは11歳から15歳ぐらいの時期でした。

 実はこの時期、市を跨いで引っ越ししたんですね。僕は兎も角として、兄が中2の終わりぐらいだったので、確かに兄に取って時期的につらい転校となったかも知れません。

 これで何があったんだと言うと友人の出来ない友達兄の意地悪が凄くエスカレートしました。友人が出来なかった理由は兄の性格なのか、それとも兄がうまく輪に入れなかったのかは分かりませんが、恐らく前者な気がします。

 

 家で顔を合わせるたびにネチネチネチと嫌味を言われてましたし、ずっと人格否定をされるような事を言われていました。ありがたい事に母親が気を使ってくれて「絶対兄と僕の部屋を別にした方がいい」と父親を説得したそうで。(父親は最後まで自分の部屋が無くなるって渋ってたらしいですが)そんなモンなんで僕から兄貴に関わる理由は全くないのですが向こうから僕の部屋に来てはネチネチ嫌味を言われたりしてものすご~~~く不愉快でした。

 

 それが原因で若干12歳にして白髪が生えました。それも結構な量。白髪が生えだした転校生なんてまぁいじられる訳でして。これも凄く嫌でした。今考えると虐めなのかも?と思わなくもないのですが、村八分みたいな事をされたとかはなかったので、まぁ物珍しさぐらいで弄られてたのかなぁって気はします。なんだかんだでクラスメートとは普通に仲良く出来ていたと思うし、友人も居たので。

 

 この時印象的だった事が3つありました。まずは両親の離婚。ぶっちゃけ、僕はそこまでこれは気にしていません。何なら両親が何故離婚したのかすら結局知る事はありませんでした。何より父親が嫌いでしたので。

 

2つ目は転校した先での出来事。仲良くなった友人が何かあるごとに殴って来て、それが凄く痛くて嫌で辞めてくれと言っても「友情表現やん!」で済まされて頭に来て殴り返してケンカになった時に先生に言われた言葉でした。

 

「殴られて痛いのは分かるで。でもやり返したらあかんやん。相手だって人間やねんから、殴られたら痛いし、許したる心持たんとな。これぐらいでケンカしたらあかんで」

 

(  Д ) ⊙ ⊙ えぇ……?

 

 怒りと言うか当時は困惑しましたし、納得いきませんでした。何でならこれ、言いなおすと「黙って殴られてろ」って事なんですよ。かなり意地の悪い解釈ですが、そう取る事はできます。と言うか先に殴った側が怒られずに僕がこんな事言われるのだろう、と。そもそも殴ってきた奴が悪いのであって、別に殺したとかケガさせたとかじゃないのに何故こんなに言われなきゃならんのだろうか。「暴力に暴力で返すと相手と同じになってしまうからやってはいけないよ」って言われてたら素直に納得してた気がする。幸い、これでその友人が殴ってくるって事を辞めてくれたので良かったです。むしろ、これが切っ掛けで友人に僕の気持ちが通じたんならすっげえ皮肉ですね。

 

 これは現代社会に通ずる事ですが、いつの時代も問題を起こす人間よりも問題を問題と指摘する人間が厄介扱いされるんですよね、なぜか。確かに問題を問題と言う人間が居なければ問題なんて起こらん訳ですが。大人がこんなんですもの、大人が偉そうに子供に物を言えないよなぁって思います。

 

 3つ目は兄の言動を母親に相談した時に言われた事でした。この時、両親の離婚が先か後かまでは覚えてないんですが、母親に相談した事だけはハッキリ覚えています。

 兄の言動が目に余るどころか白髪と言う形で実害が出ているので母親に相談したのですが、

「兄も人間やし、受験とかのプレッシャーとかあるんちゃう? 時期が時期やから友達も作りづらいからストレスもすごいやろうし、そんな言い方せんでええんちゃうか? もうちょい人の気持ち考えたってもバチ当たらんで」

 

(  Д ) ⊙ ⊙ えぇ……? 僕の気持ちは?

 

 当時ぐらいの年齢の時、先生や母親に「人の気持ちを考えれる人間になろう」と言われていましたが、この仕打ちを受けると言う事はそもそも僕は人間ですらなかったのでしょうか。あまりにも残酷です。

 

 兄も人間です。大事な時期に学校が変わって色々大変だったと言うのも分かります。ストレスもあったでしょう。理解も納得も出来ます。でも、それを弟である僕で発散していい理由にはなるのでしょうか。僕と言う人間の気持ちやストレスはどうなるのでしょうか。先生はまだしも、母親が僕の気持ちを汲んでくれなかったら、どこの誰が僕の気持ちを汲んでくれるのでしょうか。絶望しかありませんでした。

 結局、兄のこの言動は僕が高2か高3の頃にそれが原因で取っ組み合いのケンカになって僕が兄をケガさせるまで続きました。母親にはめちゃくちゃ怒られましたが。しかし、この時に学んだ教訓は「話しても通じない奴が居て、そういう奴を理解させるには痛みを与えるしかない」と言う事でした。幸い、この教訓を生かす場面は未だにありませんが。

 

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 で、次に大変だったなぁって時期が高校を出た直後あたりな気がします。元々進学するつもりが、直前になって母親が働いて欲しいと言い出して、結局しばらくプー太郎をしてから、なんとかフリーターとして仕事を見つけた矢先に母親が職場を勢いで辞めてしまい、当時18か19のクソガキが家計を切り盛りする事になりました。母にも兄にも金の無心をされました。今思えば、ここで非情になって二人を切り捨てる事が出来れば僕の人生は別の形になっていたかも知れません。

 

 当時、地元の友人の殆どが進学していて僕が必死になって仕事してる間に友人が勉強していて、僕が家で嫌な思いをしている時に友人は遊んでいて……当時はものすごくイライラしていてたくさんの人に迷惑をかけてしまいました。もう時効だと思うので公の場所で書きますが、ストレスが酷くて飲酒しないと寝れないぐらいでした。

 

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 それでも母親はなんだかんで仕事を見つけたり……と時間が緩やかに流れて23歳。母親が亡くなりました。

 

 まず最初に母が胸が痛くて苦しいと言う事で近所の病院に掛かり、もっと大きい病院で精密検査をしてもらおうって事で痛み止めを貰い、翌日その病院へ。僕が付き添ったのでよく覚えています。朝の9時ぐらいにたたき起こされて病院に付き添ってくれと言われました。兄貴でよくねえか?と言いましたが、なんかあるとあいつは頼りにならんからとの事で僕が付き添いする事に。

 

 病院の対応がすべて不誠実だったのを覚えています。まず最初にレントゲンを撮った時にでした。炎症っぽい物はあるっちゃあるけれど、そこまで痛む物ではないと思うと言われましたがそもそも母親は痛み止めを飲んでるんですよね。当然、母もそれを言ったんですが素人が何気なしに飲んだ薬の名前なんか憶えておらず、紹介状があるのだからその病院に問い合わせれば何が処方されたか分かるはずなのに、一蹴。結局半日かけて点滴をしただけでした。

 

 点滴が終わった時、母は痛み止めが切れたのでしょう、苦痛にゆがむ表情でした。長年一緒に生きてきてみた事ない表情です。当然、看護師さんを呼んでみてもらうのですが、まず血圧を測り、異常が無かったので、看護師判断で点滴を行い、母親が持って来ていた痛み止めを飲ませました。点滴が終わった時、女性の看護師が「痛み止めが効いてるうちに帰りましょう」と言いました。先ほどまで異常に苦しんだ表情をしていたのに。どれだけ僕達が訴えても取り合って貰えず、結局追い返される形で家に帰る事に。

 

 結果、その日の夜に母親の容態が急変しました。夜中、なんとなく寝れなくてトイレに行った時に母親の部屋から表しがたい声が聞こえて駆け付けた頃にはもう事切れていました。救急車を呼び、人口呼吸のやり方などを電話越しに教えてもらいましたが、上手く出来たと言えないでしょう。一生ものの後悔の一つです。

 

 救急車で運ばれた先は皮肉にも母親が精密検査をした病院でした。けれど、その時のお医者さんの表情を見れば懸命に対応してくれたのは分かります。待合室で待っていて30分ほど経ったぐらいに医師の方が神妙な面持ちで僕に、

 

「申し上げたい事があるのでお手数ですが、来ていただいてよろしいですか?」

 

 と言いました。断る理由なんかないので素直に頷き、医者について行って案内された先はドラマで見るような手術用の部屋。母の元へ誘導されました。母は色んな管で繋がれていました。あまりにも痛ましい絵。近くにピッピッとなる心電図。それは小さいながら心電図が反応を示している音でした。ああ、今は気を失っているだけで生きているんだ。わずかな希望が見えた時でした。

 

「まことに申し上げ難いのですが、お母さまが目を覚ます事はほぼ無いと思います」

 

 ハンマーで頭をたたかれた気分だった、いや、首を切断された気分だったかも知れない。酷い眩暈が僕を襲ったのを覚えています。

 

「それはつまり、うちの母は植物人間になったと言う事ですか?」

「……そう言う事になります。お辛いかも知れませんが、ユイノさんに一つの判断をして頂かなくてはなりません」

 

 全部言わなくても分かる。ドラマで何度か見た事ある展開です。このまま機械に繋いだままの状態にして母親が目を覚ますのを待つか、僕が判断する事で母親を楽にしてあげるのか。23のクソガキにはあまりにも重い話だった。

 

「気が動転されてると思いますし、ご家族と相談されたい事もあると思いますので、別に今すぐに答えを出さなくても結構ですよ。まずはご自身の気持ちを整理した上で決断なさった方がお母さまのお気持ちも楽だと思います」

「いや、もう楽にしてあげてください。こんな状態ではきっと母も苦しいだけだと思います」

「……それでよろしいですか?」

「はい」

 

 植物人間とはつまり、脳死状態です。心臓が動いてるだけの状態。死んでいるとも生きてるとも取れる状態。確かに植物人間の人が目を覚ましたと言う話は聞いた事あります。しかしそれは奇跡でしかないんです。それにその軌跡が起こるとも限らないし、脳に酸素が行かないと言う事はやはり相応のダメージを脳が受ける訳ですので、目を覚ましてもきっと……と考えてしまいます。

 

 でも逆に言えばなんの問題もなく目を覚まし、日常に戻れる可能性もある訳です。僕の「これは生きてるとは言えない。これ以上苦しむ必要もない」なんてエゴで母の命を奪ってしまったのでは?と言う考えが8年経った今でもよぎります。

 

 医者の人が母から機械を外した時、ヒッと言う母親の甲高い声。それから間髪入れずに聞こえてくる心電図のピーと言う音。その場でうずくまって人の目を憚らずに泣いたのはずいぶん久しぶりな気がしました。母親の声は恐らく、機械を外した時に空気で声帯が揺れたのだと思います。でもあの声と心電図の音は僕が生きている限りは忘れる事が出来ません。忘れようもありません。

 

 恐らくと言うよりほぼ間違いなく殆どの方が僕の行動を非難する事はないでしょう。実際、唯一はなした友人も「俺でもそうする」と言っていたぐらいでした。でも、そうじゃない。そうじゃないんです。他人じゃないんですよ。他ならない僕が、僕自身が許せないんです。母親を殺すようなマネをしておいて僕はなんで生きてるのだろう?ずっと思っています。僕が僕である事を認め、受け入れれるのはきっとこの一件で自分を許せる日が来たらなのだと思います。

 

 ここまでは正直、家族の別離ですので決してありえない話ではないのですが、この後にあった事がとことんまで僕を追いつめたのだと思います。

 

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 人が亡くなると実に色んな手続きをしなければなりません。悲しむ時間すら僕には満足に与えられませんでした。通夜、お葬式……それが終わっても今度は市役所に通う必要がある手続きが大量にあります。そこら辺は市役所に行って、相談して書類を書いて提出するだけだったのでさほど苦ではありませんでした。なんで僕がやってるんだって話ですが。(当時兄は何も仕事をしていなかった

 

 では何が問題だったのかと言うと、駆けつけてくれた叔母でした。好意と言うか善意でして貰ってるのに凄く失礼な話ではあると思うのですが、病院での一件が看護師である叔母的には引っかかる部分があるらしく、当日の詳細を聞かれました。まるで僕が何かの事件の犯人みたいに尋問されている気分でした。自分の言動を目の前で逐一メモを取られるのが凄く苦しかった記憶があります。

 

 病院側と話をしたのは母を棺に入れてあげる前だったので時系列的には葬式前のお話ですね。ややこしくてすみません。

 

 結論から言うと、さっさと返した看護師の発言を裏付ける物がない以上は病理解剖をするしかない。病理解剖は第三者の人を雇わずにこちらで行う。ここまで言われたらなんとなく僕でも察します。要するに解剖した所でカルテを書くのは向こうなので都合の悪い事があっても書き換える事が出来る訳です。叔母に聞いても実際に書き換える事は多々あると。

 

 まぁ、そりゃそうです。僕から見れば大事な母親ですが、向こうからすれば故も知れぬそこら辺のおばちゃんです。それに病院は人を助ける場所ではありますが、人情で動く場所ではありません。病院とはつまり、人助けでなり立つビジネスな訳です。病院には命の価値なんてありはしないのでしょう。

 

「きちんと対応して頂けたら助かってた可能性があったんですよ?」

「たらればの話ですよね? 可能性の話をされても困りますよ」

 

  あの時は言葉が出なかったけど、今はこう言える。「可能性があるから問題なのだろう」と。そもそも助かる可能性が無ければ問題にならないんです。可能性があったからこうなってる。今となっては遅い言葉ですが。

 

 次は一応元父親にも母親が亡くなった事実だけでも告げようと思って市役所に頼った時の事でした。名前ぐらいしか覚えてないんで正直見つけるのって出来るのかなぁって思っていたら、戸籍を辿って行ったら見つかりました。市役所の方が手紙を送ってくださったが、反応がない。まぁ、急に市役所から手紙来て市役所に電話しろって身構えるよな。仕方ない。戸籍が違う以上はもう他人なので、住所を教えてもらう事はできない。ならもう直接の僕の電話番号送りつけて電話してもらうしかないと市役所に方に相談するとそれならギリギリ大丈夫ですと対応してもらいましたが、僕の電話がそれでなる事はありませんでした。

 

 正直言って、ここら辺はあんまり期待していませんでした。一応家族だった以上は伝えるのが筋だと思っただけで、当時でも離婚して10年以上経ってる訳ですし、再婚してても可笑しくない訳ですからね。そこまで向こうに対して踏み入る気は僕にはありませんでした。

 

 何が問題だったのかと言うとまた叔母さんなんですよ。色々して貰った以上は報告しておくべきかなと思ったのが間違いでした。

 

「離婚したって言うても自分の血通った子供やろ?! 関心あらへんの?!」

「離婚した理由を知らん?! なんで?! ありえへんやん!」

 

 そんな感じで「僕に言われましても」的な事でずっと僕が責められました。これが結構堪えたんです。これに関しては本当に僕は胸を張って言えますが、何一つ悪い部分がないので。いやまじで理不尽だと思う。

 

 さすがの僕も両親が離婚するとなると理由が気になるので母親にどうして離婚するのかと聞いた事があります。でも母親が「言いたくない」と言ったので、「あ、そうなんだ」ぐらいでした。母親はもちろん母親ですが、その前に一人の人間ですので僕ら子供に言いたくない事ぐらいはあるでしょう。なので当時はそこまで聞く事じゃないのかなぁって。なので、今父親と話す機会があるなればなんで離婚したのか知りたいですね。そもそも存命なのかすら分かりませんけれど。

 

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 生きる為に僕は働く必要があります。家に住むのも電気を使うのも、何をするのにしてもお金が要ります。自分の後悔から目をそらすために仕事に行って帰って寝る生活をつづけました。職場では笑顔で大丈夫なフリをしていました。

 

 所詮はバカのやせ我慢なのですぐに限界が来ました。当時の職場を辞める前に笑っている僕が異常に感じたのか、会社の方に勧められて心療内科に行きました。結果、うつ病。診断書を望まずとも退職の為に必要だからと発行されましたが、駅で捨てました。ここで僕が休むと行き倒れになるから。その我慢を続けるに続けて限界が来て、職場を辞めました。二カ月ほど食う寝るの生活をしてたと思います。

 

 その間、病院で起きた事の夢や、夢で当たり前のように日常を過ごす母が出てきて現実とのギャップにも苦しみました。

 

 お金は母親の生命保険が下りたので、無い訳ではありません。しかし、これは僕や兄が楽をするためのお金であるべきではありません。働く必要があります。

 

 立ち直るための切っ掛けはありました。夢です。

 夢で母の写真に向かって泣き言を言う僕が居ました。けれど、その写真は急に置いている棚から落ちて、その写真を持ち上げる写真の表情は怒っている表情でした。そこで僕の気持ちはある程度前を向いたのだと思います。

 

 本当は僕がしっかりしないと行かないのに、夢で母親を怒らせてしまった。きっと、今まで夢に出てきた母親は普段通りに接する事で、僕に気にしすぎるなと言う事を伝えたかったのでは、と今では思っています。もう死んでしまったはずの母親に結局面倒をかけた。

 

 起きたその日のうちに、とりあえず色々とお世話になった市役所に相談してみると「事情も分かってますから就労支援の方、すぐに手続きしますよ」と背中を押してくださいました。二社ほど面接を受けて一社の方はすぐに受かりました。一週間も掛かってなかったと思います。

 

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 そんなこんなで社会復帰してそこから時間が流れて今に至って、本当ようやく僕の身の上が落ち着いて来たのかなと思っています。それこそこんな記事を書くぐらいには。

 

 わりとどん底まで行きました。死にたいとも考えました。楽に死ぬ方法も何度だって探しました。でも死ぬ度胸が無かった。母親の死を近くで見過ぎたから。

 

 それでもギリギリのラインを歩いて生きて来れたのは友人達が変に気を遣わず普段通り接してくれたからだと思っています。変に気を使われて腫物扱いされていたら、今この瞬間に僕はもうこの世にはいないでしょう、間違いなく。

 

 僕を救ってくれたのは兄や叔母の身内ではありません。言ってしまえばまったくの赤の他人でした。普段通り接してくれる友人達、気を使ってくれる職場の人たち。他人である方々の方がよっぽど僕の気持ちに沿った言葉をかけて下さったように思います。

 

 ですからどうか、皆さんも人とのつながりを大事にしてください。僕が正真正銘のぼっちだったらならば秒で自殺していました。確かに自分を救えるのは自分だけですが、答えそのものでなくても答えにつながるものはあるはずです。

 

 そして何よりも自分を大切にしてください。優しくしてくださる方は世の中には意外な事にたくさん居ます。しかし、自分の事を一番理解して優しく出来るのはまず自分自身なのです。本当に辛いと思った時は止まってもバチは当たりません。

 

 今でも僕の後悔はなくなっていません。フラッシュバックと言えばいいのでしょうか、突然思い出して寝付けなくなったり、突発的に高まる不安感などの恐らく後遺症的な物に今も苦しんでいます。これはきっと、僕が生きているうちは一生抱えて行く事になるでしょう。

 

 正直言って、僕は割と今世をあきらめている感はあります。もういいや感的な。逆言えばそんな感じで生きていけるので今までよりはほんの少しは楽かも知れません。ひとさまになるべく迷惑をかけないように雑に生きてる感じでしょうか。

 

 殆ど誰にも言わなかった事をこうやって敢えて人の目に付く所で書いた事でなんかもう逆にすっきりした気がします。気持ちが軽くなったと言うか。

 

 これからの僕はどうしたいのかと言うとあんまりビジョンはありません。とりあえず今の生活を維持できるように努力はしたいなぁと思っています。ひとまず自炊する癖とか付けた方がいいのかも知れない。